2024年10月号 神戸駅から中央卸売市場へ
今日は神戸市を構成する行政区9区のうち、人口密度は最大、面積は最小の「長田区」あたり今日はJR神戸駅北口から西国街道を西に歩きます。神戸駅はプラットフォームの中央にJR東海道線の西の終点で山陽線の起点を示す「キロポスト」が置かれている駅です。それだけではありません。1934年(昭和9年)に建てられた三代目の駅舎は「近代化産業遺産」に指定されている、由緒ある駅なのです。写真の駅の外観も時代を感じさせますが、構内の柱や壁などにも重厚な装飾が施されていて、眺める人を昭和初期にタイムトリップさせてくれます。
JR神戸駅北口
JR東海道線は三宮からやや南に走り始め、元町駅を出るとぐっと海側に曲がり、神戸駅のあたりでは、ほぼ南北に走っています。ですから神戸駅のこの出口は、正確には西出口と呼ぶべきだと思うのです。ところが、神戸では北を山側、南を海側と呼ぶという“慣例”があります。駅を出ると山が見えるこの出口は、神戸の習慣で「北口」ということで、みんな納得しているのだと思います。
この神戸駅の西隣の駅は兵庫駅です。JRの駅名として市の名前と県の名前が続くのは珍しいそうです。その歴史を少したどってみます。
兵庫県が誕生したのは1868年(慶応4年)です。初代県庁は「兵庫の津」に置かれました。ざっくりですが、サッカーのヴィッセル神戸のホームグランド「ノエビアスタジアム」のあたりだといえばわかるでしょうか。兵庫の津は大輪田ノ泊とも呼ばれていて、平安時代から江戸時代まで、大いに栄えていた港町です。江戸末期、外国から大型船が来訪するようになったのですが、兵庫の津は深さが足らず、新しい港が神戸や三宮に造られました。
1873年(明治6年)県庁が神戸村(現在の神戸地方裁判所近く)に移転し、1874年(明治7年)には東海道線が開通しました。大型船の入港が神戸港に移り、鉄道や道路も山側に移動したために、兵庫の津は長田地域の小さな港町になってしまったのです。
1888年(明治21年)山陽本線の兵庫―明石間が開通して兵庫駅が誕生しました。1894年(明治27年)居留地が返還され、元町辺りの港の整備が進められます。当時神戸の人口は135万人を数え、東京や大阪をしのいでいたとの事です。神戸の近代化のスピードを示す数字と言えます。
神戸駅が誕生する以前、このあたりに湊川があり、兵庫の津に流れ込んでいました。湊川はたびたび洪水を起こす暴れ川で、1904年(明治37年)に山に沿って西に水を流す「湊川隧道」が造られ埋められてしまいました。新開地と呼ばれる神戸一の繁華街は、埋め立てられた場所に神戸駅周辺にあった色町が移転して誕生した新しい街です。
新しい道路標識
西国街道はJR神戸線をくぐります。そこの交差点の西に「湊八幡神社」があります。その昔、にぎやかな西国街道添いのこの神社は「迷子が見つかる」神様として知られていたそうです。私が子供のころ暗くなるまで遊んでいると「人さらいが来る」と脅されたことを思い出しました。「人さらい」や「神隠し」など、今では死語になりました。
湊八幡神社
西国街道を西に進むと、国道2号線とその上を走る阪神高速に行く手を阻まれました。道路の向こうに道筋が見えているので、少し三宮の方へ戻って「七宮交差点」を渡ります。交差点のそばに生田神社の7つ目の守り神の一つの七宮神社があります。
七宮神社
札場の辻
少し南に歩くと「札場の辻」に出ます。その昔港に入る鑑札を検査していた場所です。西国街道はここから西に折れてJR兵庫駅の方に向うのですが、今回は、西国街道をはずれて、平安の昔から明治の初めまで大いに栄えた港、「兵庫の津」を歩くことにしました。
兵庫の大仏(能福寺)
住宅地を少し南に行くとお寺の境内に高さ11m(台座を入れると18m)の白い大仏さんが鎮座しています。「兵庫の大仏」として親しまれているこの大仏は二代目です。初代は1891年(明治24年)に建立され、当時は奈良や鎌倉の大仏と並び称されて人気があったそうです。しかし戦時中の金属類回収令で青銅の大仏は供出され姿を消しました。1991年(平成3年)阪神大震災の4年前に再建された大仏は、地震とその後の街の復興をじっと見守っています。
大仏のある能福寺は1805年(文化2年)最澄により建設され、平清盛の保護を得た大寺でした。境内には清盛塚や「神戸事件」の責任をとって切腹した滝善三郎の顕彰碑があります。滝善三郎が切腹したのは近くの永福寺でしたが、永福寺が戦災で焼失してしまったため、1969年にここに記念碑がたてられたのです。
神戸中央卸売市場
そこからすぐ近くに「神戸市中央卸売市場」があります。神戸市内には、食肉を扱う西部市場が長田に、水産・青物・花を扱う東部市場が東灘に、そしてこの中央卸売市場と三か所に卸売市場があります。この中央卸売市場は1932年(昭和7年)日本で5番目の卸売市場として開かれました。この市場も阪神大震災で大きな被害を受けたのですが、青果部は翌日、水産部も1週間で再開したと伝えらえています。
中央卸売市場が現在の場所に新設されたのは1987年(昭和62年)でした。埋立地であるために、震災の被害が心配されましたが、建物や商品の被害は微少、耐震構造がしっかりしていたようです。
「市場の電気は夕方にはついたと思います。近くの、商品を預けている倉庫会社は停電しました。保管してもらっている商品のその量もさることながら、冷蔵の場所は人手で取り出せるような構造にはなっていないし、やみくもに開けると温度が下がってしまう心配があり手がつけられなかった。商品の搬入などは海路を使っていたと思います。休業はしなかったけれど、どうやって営業を続けていたのか、今考えても余りよくは覚えていません」とは、市場関係者の話です。「余り覚えていない」は、想定外の震災にあった人に共通の感想、実感だと思います。
近年の流通システムの変化は中央市場にも影響をもたらし、年々取引量が減少し、従業員数も少なくなっています。市場内の従業員職食堂は、昼食の定食提供数が一日の100食足らずと以前の1/10になり、しばらく前に閉鎖されたとのこと。近くにあった食品工場も、敷地が手狭になったなどを理由に他所に移ってしまいました。人口減少も進んでいます。
このような状況下、中央卸売市場も街の活性化に積極的で、道路の反対側に市場の事務所や職員住宅などがあった場所に2017年(平成29年)オープンしたイオンと「魚河岸DAY」を年2回共同開催しています。市場の通路に出店が並び、来訪者はイオンの駐車場を使うという形だそうです。
イオンのすぐそばに、1991年(平成3年)神戸の歴史を解説する「ひょうごはじまり館」が、2021年には「初代県庁館」が復元されました。
初代兵庫県知事は伊藤博文でした。実際の建物の位置はここではなく、もう少し北の方だったそうですが、伊藤はここで1868年(慶応4年)から一年間執務していました。一年後、県庁は神戸駅の山側に移転しています。
「兵庫の津」と呼ばれていたこのあたりは、長い間海運でにぎわった港町でした。明治維新には訪日外人の多くがこの兵庫の津から上陸しました。しかし、庁舎をはじめ神戸港の機能の中心が東に、元町・三宮方面に移り、鉄道や道路などの陸上交通ラインがやや北に開通するなどで、兵庫の津は完全に忘れられた場所になってしまっています。
今日のコースは、都会にしては騒音も公害も少なく、街歩きには最適の地域と思われます。平清盛にちなんだ遺跡をたどるなど、歴史好きの人には特にお勧めです。「ひょうごはじまり館」の大スクリーンで、平清盛から幕末・明治維新までのミュージカル調の解説を楽しみ、その後で街を歩いてみるのはいかがでしょうか。
地下鉄「海岸線」の「中央市場前」から三宮に出て帰路につきました。この海岸線の電車はリニアーモーターで走っているので、地下鉄独特の騒音がありません。新しいアイディアのこの路線は赤字路線ということなのですが、静かなかわいい電車も街歩きの楽しみに加えたいものです。
(文と写真:天野郡寿 神戸大学名誉教授)