2021年10月号 道頓堀あたり
「道頓堀を掘ったのは安井道頓」というのは大阪人の常識です。ところが道頓の名字は「安井」ではなく「成安」で、その成安道頓が「道頓堀を完成させた」のではなく「開削工事を手掛けた」が正しいそうです。道頓堀と安井道頓とについては、これまでいくつもの研究はありましたが、正確な歴史が広く伝えられたのは、なんと「裁判」のおかげでした。
1965年(昭和40年)大阪市が道頓堀川の整備工事計画を始めました。これに対して、安井道卜(やすいどうぼく・道頓とのつながりは薄い)の子孫が「当家は長らく道頓堀川の維持管理にあたってきた。大阪市の川改修から得る利益は当家のもの」と訴え出たのです。判決は「安井家の業績は認めるが堀川の所有権までは主張できない」となりました。判決文を参考に道頓堀川の歴史を紹介しましょう。
安井道頓・道卜顕彰碑
「成安道頓」は豊臣秀吉政権に繋がる有力な豪商の一人だった。大阪城の外堀の開削に功ありと秀吉から恩賞として大阪城の南の土地を与えられ、その地から大阪湾に向かう堀川工事(後の道頓堀川)に着手する。ところが工事の途中で天下分け目の戦いが始まり、豊臣家との恩義を重んじた道頓は大阪城に籠城し焼死。徳川の世になって、道頓の縁者たちがその遺志を継ぎ工事を再開完成させる。その堀川に大阪を支配していた松平下総守忠明が「道頓」の名を付けることを許した。反徳川だった道頓の名前を使うことを許したのは人気取りだったともいわれている。その後「安井家」が道頓堀の改修や管理者的立場にあった。「成安」が「安井」になったのは、似通った姓がいつの間にか混同を招いた、あるいは安井家の功績にしたかったなどが考えられるが、この点は今後の研究を待たねばならない。
道頓堀川は、東横堀川が西に曲がったところから始まります。最初の橋が大和橋、堺筋にかかる日本橋は2番目の橋です。日本橋は幕府直轄の「公儀橋」で、当時は紀伊國に向かう街道の出発点でした。界隈には旅館などが立ちならび、大いに賑わったのは昔のことです。今の日本橋はあっさりとした、地味なデザインで、余り目立たない存在です。
ナニワの日本橋
この日本橋から1967年に作られた川沿いの散策歩道に下ります。当時の道頓堀川は潮の干満で水位が上下し、満潮時には建物のすぐ下まで、汚い水がひたひたと漂っていたそうです。遊歩道を西に、やがて相合橋をくぐります。
粋な名前のこの相合橋、完成当時は「中橋」と呼ばれていましたが北に流れる長堀川に同名の橋があったため、相合橋と名付けられたと伝えられています。「恋する男女が一緒にわたる橋」は華やぐ道頓堀にふさわしい風景です。川の南側(写真左側)には芝居小屋、北側(写真右側)には茶屋が並んでいて、芝居見物の客はまず茶屋で一服、そしてこの橋を渡って芝居小屋に通ったそうです。NHK朝ドラの「おちょやん」はこの辺りが舞台です。
道頓堀の遊歩道
道頓堀界隈には「宗右衛門町」「太左衛門橋」など人名のついた街や橋が多くみられます。いずれも建設に私財を投じた当時の有力商人の名前だそうです。「幕府には頼りまへん」という昔の「なにわの商人」の心意気がしのばれます。
戎橋をくぐると、おなじみグリコの看板(1932年初代設置)の下に出ます。6代目の看板は目下修理中です。対岸に張り薬の大きな看板が登場していますが、歴史のあるグリコの看板に対抗できるかどうか、楽しみです。
西側から見たグリコ
左右の大看板を見ながら西に行くと御堂筋の下をくぐります。御堂筋にかかる橋が道頓堀橋で、1937年(昭和12年)御堂筋完成と同時に設置されました。この橋、長さ38.2m幅43.6mで、長さよりも幅の方が広く「橋を見る会」のメンバーには見逃せない、ちょっと変わった橋なのだそうです。御堂筋の幅の広さを感じながら遊歩道のトンネルを抜けると新戎橋です。
新戎橋
新戎橋は白いパネルが光る橋です。この橋が架けられたのは明治26年で道頓堀では新しい橋の一つです。当時この西道頓堀地域は宗右衛門町や戎橋近辺と肩を並べるに繁華街でしたが第二次世界大戦で焼け野原になってしまいました。戦後、戎橋付近は復興が進んだのですが西道頓織は回復が遅れたようです。界隈の復活を期して2008年(平成20年)赤く縁取りの新しい橋が改修完成しました。夜になると橋の赤いフレームと淡い光が川面を照らす新趣向です。橋の南詰に「出世地蔵(ふれあい地蔵)」があります。この地蔵さん、戦争で行方不明になっていたのですが、その後偶然に地中から掘り起こされ元の場所に祭られたのだそうです。お地蔵さんに手を合わせた後、柔らかい光に照らされた橋を渡るのが西道頓堀界隈の楽しみの一つになっています。
湊町リバープレース
新戎橋をくぐり大国橋が見えると遊歩道は終点で、北側に西横堀川の名残を見ながら地上に出ます。四ツ橋筋を横切ると変わった形の新しい建物の前に出ます。これが「湊町リバープレース」です。ここは高い建物もなく、派手な広告にかこまれた戎橋周辺とは違って、ゆったりとした広場になっていて、一息つくのにはお薦めの場所です。
湊町リバープレースの広場で少し休憩した後、再び西向きに歩を進めます。ここからは川を見ながら歩ける道はありません。川から一筋南の幸町を歩きます。西道頓堀川と呼ばれるこの地域、江戸時代は海運の盛んな場所で、川に面してたくさんの船着き場があったそうです。今は一階が事務所、上はマンションというビルが続く静かな町筋です。
住吉神社の灯篭(6㎞離れているそうです)が見えたという住吉橋の上に、川にパンくずを投げ込んでいる人がいました。下をのぞくと30㎝はあると思われる数匹の鯉と亀が餌にたかっていました。
幸橋から汐見橋、そして道頓堀川の最後の日吉橋へと歩きます。この辺りは海抜ゼロメートル地帯で、昔は材木屋、家具屋などの街でした。数少なくなった材木屋の店主は「今でも大雨が降ると膝まで水に浸かる」と話してくれました。通りは車も少なく、対岸には新しいマンションが立ち並んでいる、落ち着いた雰囲気の地域です。
道頓堀川の水門(大正橋から撮影)
道頓堀川の管理は「高潮の被害回避」が一番であることは言うまでもありません。しかし遊歩道ができてからは「親水空間保全」すなわち観光資源としての水位の安定と水質の改善が重要になりました。そのために2000年に東横堀川の入り口と道頓堀川の出口に水門が設置されています。川の水は昔と比べると臭いも少なくなり魚も泳ぐようになりました。しかし、水質は6段階の上から3番目で「遊泳には不適合」のレベルで、飛び込んだりするのは危険だけではなく不衛生です。近い将来「道頓堀川水泳大会」が開かれることを期待しながら、水に思いをはせる約3kmの街歩きでした。
(文と写真:天野郡寿 神戸大学名誉教授)