2021年4月号 桜宮から京橋へ
環状線の「桜宮駅」このあたりは昔から桜の名所で「浪速の花見第一の場所」といわれていたところです。駅名もそれにちなんでいます。大川(この川の呼び名です)に近い出口をでると目の前にあるのが「源八橋」です。駅前の橋なのに「桜宮橋」とは違うのかという疑問は後ほど。
昔ここに「源八の渡し」という渡し船があって、1936年(昭和11年)橋が架かるまでは大川を船で渡っていたのです。橋の西側(北区)は「同心」「与力町」など、いまでいう官庁街でした。東側、桜宮駅のある側は、中野や野田町という地名からわかるように、畑や田んぼが広がっていたそうです。
源八橋
源八橋を渡って川沿いに整備された遊歩道を歩いていくと、帝国ホテル(旧三菱金属(㈱大阪精錬所跡地)の裏手にでます。60年代にこの大川でボートを漕いだという人は「とにかく水が汚かった。川岸も全く整備されておらず、大潮の時は河岸にある工場や人家の近くまで浸水していた」とその当時の様子を語ってくれました。橋下元市長の「きれいにして泳いでみる」との宣言が実現したのでしょう。泳ぐのはちょっと無理ですが、鯉が泳ぐほど水もきれいです。あちこちにあったブルーテントも撤去され、川向うに林立していた「ラブホテル」の看板もなくなっています。これは多くのホテルが外人観光客向けに改装して、以前のケバケバの看板を下ろしたからです。景色良し、空気良し、散歩には最適の場所となっています。
帝国ホテルからしばらく行くときれいな橋が見えます。これが国道1号線にかかる「桜宮橋」です。この橋は西側から見るのがおすすめです。
桜宮橋 左側が新桜宮橋です
「桜宮橋」は1930年(昭和5年)国道一号線の通る橋として建設されました。長さ187.8m、幅22mの当時としては国内最大の鉄橋には、地域を代表する「桜宮橋」という名前が付けられました。軟弱な地盤に建てられたこの橋、地盤沈下に対応できるような技術が取り入れられていたのですが、それでも予想以上の沈下が生じ補修工事が必要だったとか。2006年増加する交通量に対応するために桜宮橋に並んでもう一つ「新桜宮橋」が架けられました。新桜宮橋の主構造は、ボルトなどによる連結を一切行わない全断面現場溶接による施工を取り入れています。旧橋は西行き、新橋は東行き、それぞれ3車線道路になりました。二つ並んでいる橋そして広い道路、なんとなく絵になる風景です。ついでながら新しい橋のデザインは安藤忠雄です。
写真の歩道を渡ると造幣局です。時間があれば常設の博物館や工場見学がお薦めです。「小学生の校外学習でいくところ」とバカにすることなかれ!造幣局ができたのは1871年(明治4年)、「通り抜け」は1883年(明治16年)に開始されています。この歴史から考えても、大人の知的好奇心を満たしてくれること間違いありません。それに何といっても入場料が無料ですから。
次は「川崎橋」を渡りましょう。この橋は歩行者・自転車専用道路として1978年(昭和53年)に建設されました。写真でもお分かりのように、この橋のユニークな構造は一見に値します。それに加えて、この橋の中ほどから見る左右の風景は「大阪はやっぱり水の都や」と感じさせてくれる「街歩き」推薦の場所の一つです。
川崎橋
川崎橋を渡って京橋駅まで京阪電車に沿って進みます。左手に今は結婚披露宴会場となっている旧市長公舎、旧太閤園(旧藤田男爵邸)、茶道具の収集では日本屈指の「藤田美術館」が並んでいます。歴史愛好家ならちょっと寄り道して、大阪城に向かって寝屋川にかかる「京橋」を訪れてください。江戸時代はこの橋が「京街道」の起点でした。江戸時代、公儀橋だった京橋は100m以上あり、橋の近辺は大いに賑わったと言われています。江戸時代の旅人はここで大阪城の櫓を見て「あー大坂についた」と思ったのではないでしょうか。
藤田美術館
京橋
不思議なことがあります。それは「京橋」という駅や橋があるのに付近に京橋という地名がないのです。大阪の歴史本には「この橋から堺筋あたりまでが京橋という地名だった」「江戸末期に橋の近くが火除地となり空き地になった」「街道の起点が高麗橋に移った」「明治・平成と区画変更のたびに町名が変わり」「最後には京橋という地名が消えてしまった」と書かれています。
環状線の「京橋駅」が誕生したのは1985年(明治18年)です。当時はまだ京橋近辺のにぎやかさが残っていたからの命名だったのでしょう。昭和の初めの京阪電車の工事とともに、それに並べて寝屋川橋が架けられました。それ以来「京橋」は脇道になってしまい、今は東から府庁の方へいく車の近道として利用されています。「京橋」という名前は残っているものの、その由来を知る人はほとんどいない「時の流れは忘却とともに」です。
(文と写真:天野郡寿 神戸大学名誉教授)