2022年10月号 「渡し舟」めぐり

 

水の都と呼ばれる大阪、明治から大正時代の主たる交通機関の1つは船だったそうです。河川は人や物を運ぶ船が往きかい、その間に「渡し舟」が運航されていました。大正時代には32か所を数えたという渡船場、道路や橋の整備が進み順々に姿を消していきました。しかし今でも市内には8か所の渡し場が残っています。いずれも観光目的ではなく、公営で無料そして自転車もOKの「市民の足」です。今回は全国でもめずらしいこの渡し船を乗り継ぐ「街歩き」に挑戦します。

午後1時、環状線西九条駅からJRゆめ咲線に乗り換え本日の街歩きがスタートしましました。ほとんどの客がUSJ駅で下車しましたが、車内にはどうみても観光客には見えない、20人ぐらいの人が残っていました。最初の目的地「天保山の渡し」へは、下車して西に向かっていくのですが、その人達も同じ方向に進んでいきます。しばらく歩いて行くとその人たちの目的がわかりました。そこに「USJ従業員入り口」があったからです。

疑問が解決してUSJの敷地を右に見ながら倉庫会社の間を進んでいくと、そこに安治川の「天保山の渡し」があります。渡し船は「○○渡船場」と書かれていますが、ここでは古風に「○○の渡し」と呼ぶことにしましよう。ちなみに渡し船は、大体15分ごとに運航されていて、一方を拠点として定刻に出発し対岸で客が乗降したらすぐに引き返すという運航方法をとっています。

渡し舟がやってきました。対岸の天保山大観覧車(直径100m、高さ112.5m)と海遊館を眺めながらの乗船です。

天保山の渡し

これから渡る安治川は1684年(貞享元年)淀川・大和川の治水の一環として、九条島を開削して造られた人工河川です。出発地点の「西九条」は、その切り開かれた九条島の西の部分というところから生まれた地名です。九条や西九条があるのに東九条という地名がない理由がわかった次第です。

大阪湾に流れ込む河川の土砂堆積は、古くは『土佐日記』にも船が漕ぎ上れないと書き記されているほど、長年水の都大阪が抱えてきた難題でした。安治川・木津川の河口の土砂を取り除く工事は天保2年(1831)に始まります。完成まで2年、延べ10万人がかかわった工事でした。このとき川底から取り除いた土を20mほど積み上げられ、できた小山を「天保山」と名付けたのです。この工事は、働き手は「労役」ではなくお祭り気分で参加したという記録があります。当時の大坂の豪商が、私財持ち出しの大盤振る舞いをしたからかもしれません。いずれにしても商都大坂の経済の維持促進には必要不可欠な工事だったようです。

船の乗客 USJの出演者?

天保山公園から「みなと通」を市内に向かって歩き「三先交差点」を右折します。「三先」という変わった地名は「市岡あたりのスイカ畑に水を引く樋(かなり大がかりの水路)が三本通っていて、その「三本の樋の先端の地」が縮まって「三先」となった」ということです。その昔、市岡はスイカ、難波はネギの名産地だったのです。「尻無川」の堤防が見えると、そこに「甚兵衛の渡し」があります。

甚兵衛の渡し

大正区側の船着き場事務所

江戸時代、この辺りは蠟の原料となる櫨(はぜ)が植わっていて、秋には紅葉を楽しむ人でにぎわった場所です。しじみや蛤を商う茶店もあったとありますが、残念ながらそんな面影はどこにもありません。船で一緒になったご婦人は「安いスーパーがあるので、買い物にいく」と、この地で生まれ育った友人は「対岸(港区)の高校に通っていて遅刻しそうになったときにこの船に乗った」と語ってくれました。渡し船は通勤以外の人も利用しているのです。

大正区は昭和7年港区から分かれて誕生しました。区の名前はドームの近くの「大正橋」にちなんでいます。今歩いている千歳は江戸末期に開発され、これから歩く鶴町や船町は大正時代に埋め立てられた土地です。

この辺りは海抜ゼロメートル地帯なので、川は高い堤防で見えませんが、尻無川を右手にみながら大浪通を西に進みます。500mほど西に向かって歩くと「千歳大橋(全長365m)」が見えます。これから渡る「千歳の渡し」はその橋の真下です。

1922年(大正11年)新千歳と対岸の鶴町を結ぶ橋が架けられました。しかし1957年(昭和32年)に大阪湾の大工事のために撤去され、その代替えとして千歳の渡しが公営で運航されました。そして2003年(平成15年)眼前にそびえるブルーの橋が完成します。橋には歩道もあるので「渡し舟」の廃止が検討されました。船の通行を考慮して海面から28mの高さがあるこの橋ですが、歩行者や自転車は長い階段を登らねばなりません。歩行者のしんどさを考えて「千歳の渡し」は残されたのでした。

歩行者用の長い階段

鶴町に下船の風景

渡った先の鶴町は大正時代に完成した埋め立て地です。優雅な町名は万葉集の「潮干ればあしべにさわぐあし鶴の…」という歌から名づけられました。高い建物のない平坦な鶴町の大正通りを進み、鶴町1丁目から木津川運河を渡る「船町の渡し」に向かいます。

船町の渡しの入り口

船町の渡しは対岸まで75mの一番短い渡しですが、一日の利用者数は170人以上を数えるそうです。昭和20年代後半から10年ほどの間渡し船の調達ができなかった時期がありましたが、その時には木造船を連ねて船の橋を作り、その上に板を敷いて人や自転車を渡していたそうです。この渡し場の必要性がよくわかる話です。

船町に渡ると工場ばかりの広い道路を歩きます。ここも埋め立て地です。その昔には飛行場があったそうです。バスも走っていますが、人家は見当たりません。日立造船、中山製鋼所の前を通って進むと「木津川の渡し」の看板が見えました。船着き場までは、この看板から100mぐらい歩かねばなりません。

木津川の渡し入り口

木津川の渡し

写真の左上に見える新木津川大橋(長さ323.5m、航路高33m)が開通するまで、この渡しはトラックなども運べる大型船を使っていたそうです。

木津川の渡しで港区船町から住之江区平林北に渡ります。だだっ広い道を南に歩くと頭上に南港通の柴谷橋が見えます。

南港通の柴谷橋

ここの歩行者専用階段を登り、歩道を住之江区から西成区へ、東に歩きます。柴谷2丁目の信号を左にとり、「サノヤス造船」など昔に聞いたことのある会社の前を通り「千本松の渡し」にたどり着きます。

江戸時代この辺りは多くの廻船が行き来し、大いににぎわった場所でした、防波堤の保護のために築かれた松林は「千本松の堤」とよばれ、天橋立にも劣らないナニワの名所になっていたそうです。西区にある大阪市立中央図書館のジオラマで、当時の地形を見ることができます。

現在、安治川、尻無川、木津川に囲まれた地域は、4,5mある防潮堤に囲まれ、高潮の被害に備えた街です。

下船する高校生

千本松の渡しと千本松大橋

千本松の渡しの頭上には千本松大橋がかかっています。この橋も先の新木津川大橋と同じループ橋で、水面からの高さは33mあります。立派な橋が完成したのですが、南港の完成もあって、この橋の高さが必要な大型船は通行したことがないとのことです。この橋が完成した1973年(昭和48年)この渡し舟の廃止も検討されました。しかし千歳の渡しと同じく、歩行者の利便性を考慮して存続が決定し現在に至っています。

千本の渡しで西成区南津守から大正区南恩加町に渡ります。木津川を右手に、次の「落合下の渡し」まで、右は工場、左は人家という場所をしばらく歩きます。

落合下渡船場入り口

落合下渡船で大正区平尾から西成区津守に渡ります。

渡船場の坂を下り、道を左にとり、最後の「落合上の渡し」に向かいます。まだかなー、どこかなーと思いながらかなり行くと、信号のところに渡しの入り口がありました。

上落合の渡し入り口

木津川のアーチ形水門

この渡しは西成区西津守から大正区千島を結んでいます。乗船した学校帰りの高校生は「通学に使っている。今まで欠航したことはなかった」ということです。

船着き場から上流を見るとアーチ形の施設があります。高潮が押し寄せた時に閉じて市内の河川の水量調節するための水門です。船の通行を妨げないようにアーチ形に作られたそうです。同じ形の水門が安治川、尻無川にも設置されています。この水門は月に一度、調整・点検のために作動するそうで、それを見に来る人も少なくないとのことでした。

職員ユニフォーム

渡し船の「船頭さん」のユニフォームはブルーですが、「落合上・下の渡し」の職員のユニフォームは濃紺で背中にはおしゃれなデザインが染め抜かれています。この2か所の渡しは数年前に法人化され、渡船料は無料ですが、市営ではないそうです。

渡し場の支柱の上に、ユリカモメ除け(フン害?)の首の動くフクロウが取り付けてあります。法人化にありがちな「公営から私営に、そして廃止」とならないように「市民の足の渡し船を守ってヤ」と、フクロウに頼んでおきました。

鳥よけの首が動くフクロウ

千島から大正通りを環状線大正駅まで歩くと5時を過ぎていました。午後からのスタートではかなりきつい街歩きでした。駅に着いて一息入れながら、ネットを見ると「渡船場は自転車で周るのがお勧め」と、そして貸し自転車店を紹介しているページが出てきました。「街歩き」で八つの渡し舟を歩いて尋ねるのは、朝から出かけるのがよさそうです。勿論「いい季節に」です!

渡船場地図

渡船場とその利用状況など 

渡船場                    運航区間                                   運航距離            利用者数/日

1天保山渡船場   此花区桜島⇔港区築港                 400m              603人

2甚兵衛渡船場   港区福崎⇔大正区泉尾                   94m              1,022人

3千歳渡船場       大正区北恩加島大正区鶴町            371m                    489人

4船町渡船場   大正区鶴町大正区船町                    75m                   174人

5木津川渡船場  大正区船町⇔住之江区平林北        238m               177人

6千本松渡船場  西成区南津守大正区南恩加島         230m                 889人

7落合下渡船場  大正区平尾⇔西成区津守               138m               355人

8落合上渡船場   西成区北津守⇔大正区千島            100m               439人

(文と写真:天野郡寿   神戸大学名誉教授)