2022年7月号 弥次さん喜多さんの跡をたずねて

 

「昔の人は偉かった」というタイトルで、二人が名所を訪ね歩くテレビ番組がありました。

早朝に出発しても日暮れまでに着かないとと急ぐ場面が多かったように記憶しています。調べてみますと昔の旅人は1日30~40キロ歩いたとあります。大阪から神戸まで30キロ、大阪から京都まで40キロ。現代人は「歩こう」とは思わない距離です。そんな距離をしっかり歩いた代表的な人物は、架空の人物ですが、弥次さん喜多さんです。今回は二人の大坂の旅の跡を辿ってみました。

伊勢・京都見物を終えた二人は伏見から淀川を下り、夕方に八軒家の船着き場(現在の天満橋あたり)に到着しました。そこから堺筋を南に歩いて、日本橋の宿屋「分銅河内屋」に到着しました。今回は弥次喜多の大阪見物の跡をたどってみます。

二人の大阪見物は「高津神社」から始まります。

<高津神社>

高津神社本殿

仁徳天皇を主祭神とするこの神社は、もとは難波の宮跡にあり大坂城築城時にこの地に移されたそうです。江戸時代には境内に芝居や歌舞伎小屋や湯豆腐などの茶屋もあり、大いににぎわっていました。中でも一番の人気は大阪湾から遠くは住吉・住之江の浦まで見渡すことができた「遠眼鏡」だったそうです。

参道に小さな石橋「梅乃橋」が架かっています。この橋は1768年(明和五年)大阪の豪商が寄付したもので、下には名水の「梅川」が流れ、道頓堀に注いでいました。歌舞伎の「冥途の飛脚」(封印切り)に登場する花魁の「梅川」の名前や大阪名物「粟おこし」の包み紙の梅の紋の由来もこの「梅川」にあるそうです。落語の「高津の富」「崇徳院」にも出てくるなど「高津さん」はナニワの住人には親しみのある神社でした。

弥次喜多の二人は、ずらりと並ぶ小屋や店の呼び込みをからかった後本殿にお参りし、その後谷町筋で簡単な酒と肴を出す居酒屋で一杯やり、安堂寺町から馬場町そして天満橋を渡り、次の目的地「天満宮」に向かいました。

<天満宮>

天満宮本殿

「天神さん」と親しまれている天満宮は「参詣の人どよみにあらわれ」と書かれるほどの賑わいで、信仰だけではなく、料理茶屋、水茶屋、楊弓屋、能狂言(辻能)、物まね、芝居、軽業、曲馬乗、植木屋などが並んでいました。天神さんの本殿は、戦争の被害を免れて江戸時代の様式を残している、大阪では数少ない貴重な建物です。

「天神さん」のお参りをすました二人は、天神橋通りから横堀通りを通り、神功皇后ゆかりの宮「坐魔神社」に向かいます。その道中、弥次さんが道に落ちていた「座魔の宮の札」(富くじ札)を拾い上げたのですが「どうせはずれ札だ」と打ち捨てます。それを喜多さんが念のためにと拾って確かめると、なんと一番札ではありませんか。

幕府公認「勧進の富くじ」は、明和から天明(1764-1788)、文化から天保(1804-1843)間には、あちこちの神社で盛んに売り出していたということです。

<坐魔神社(いかすりじんじゃ)>

 座魔神社本殿

正しくはふりがなのように読むそうですが、今は「ざまじんじゃ」が主流とのことです。坐魔(いかすり)は土地や居住地を守る意味の「居所地」が転じたとされていて、由緒書きには神功皇后が新羅から天満の西方に帰還した場所につくられた(その場とされる石町には御旅所がおかれている)とあります。「延喜式」に摂津の国西成郡の社であったこと、また朱雀天皇の939年に(天慶2年)雨ごいをした11社の中の一つという記録があるそうですが、いずれにしても読み方の起こりはよくわかりません。とにかくこの社は古くから浪速の土地に根差した産土の社(生土神)として信仰されてきたことは確かです。

二人は喜び勇んで座魔神社に駆け付けたました。しかし「当り札の金子は翌日渡す」と張り紙がしてあったのです。

がっかりはしたものの、二人は社寺への参拝は忘れずに、すぐ隣の難波御堂に「バチではなく富札に当たった。ありがたい」と手を合わせ、続いて仁徳天王の社(現難波神社)にも参拝し、日本橋の宿に意気揚々と凱旋したのでした。

<難波御堂(真宗大谷派難波別院)

南御堂

大阪のメインストリートである「御堂筋」は「北御堂」「南御堂」から境内の提供を受けて1937年に開通しました。「御堂筋」の名前はその辺からきているのだそうです。

本願寺が大阪が本拠地であったことはよく知られています。南御堂(本願寺津村別院)は大坂城築城の1598年に現在の位置に移され、その後家康が寄進した京都東山の土地に東本願寺が建設される1602年までは、この地が東本願寺の中心でした。

ちなみに北御堂は、1591京都堀川6条に移りました。しかし大阪の地での伝統を受け継ぐためにと現在の地に津村御坊(津村は古い時代の地名)を建設したのがその始まりということです。

<難波神社(上難波仁徳天皇宮)>

難波神社

難波神社は反正天皇の五世紀前半には平野あたりにあり、天正年間(秀吉の時代)に現在の地に移され、その後今日まで船場商人の氏神様として信仰されてきました。弥次喜多の時代は、社の境内に芝居・見世物・軍書読などの小屋やいろいろの商店が並んでいて「大坂一覧の時はまづここに詣るべし」と名所案内に書かれるほどの人気の場所でした。江戸時代の地図に難波神社の場所を「イナリ」としているものがあります。しかし『摂津名所図会』によると「上難波仁徳天皇宮、世人馬喰稲荷と称ずるは訛なり」とあり、境内にあった博労稲荷の絵馬が人気だったために、一般には「イナリ」と呼ばれていたのかもしれないということです。。

二人はこの神社でもしっかりとお参りし、戎橋の茶屋小屋や芝居茶屋を通り抜けて宿にもどります。喜びいっぱいの二人は落ち着かず、夕食もそこそこに、借りた衣装で身をやつして新町(西横堀で揚屋が並んでいる地域)にくりだし、真夜中まで遊んだのでした。

さて翌日、富くじが「番号は同じだが組が違う」ことが判明します。天国から地獄へ突き落された二人、特に弥次さんは自殺するのではないかと思うほどしょげてしまいました。昨夜の前祝の酒肴、貸衣装の代金などの支払いを迫られて、「払え」「高すぎる」「払えない」と争いが始まります。この貸衣装は、呉服屋大丸です。享保2年(1717年)に下村彦右衛門が現在の京都市伏見区で大文字屋呉服店を開き、その後大坂に進出を果たしたあの大丸です。そこに顔を出した宿屋河内屋の亭主「宿屋稼業にはありがちなこと。お金の心配はよろしい。せっかくの大坂、今日は私は住吉さんへ行くサカイ、あんたらも来なはれ」と優しい言葉をかけたのです。その親切に甘え、二人は「生魂神社」から「四天王寺」「住吉神社」へと3日目の大坂を楽しむのでした。

弥次喜多の大坂見物の距離は、夜の新町行を含めると15km以上になります。

やわな現代人はをJR天満駅をスタート地点とし「天神さん」から御堂筋沿いの社寺を訪ね、道頓堀を東に歩いて「高津神社」に、そして谷町9丁目をゴールとするのが丁度良いようです。

(文と写真:天野郡寿   神戸大学名誉教授)