2023年1月号 大川縁から淀川堤

 

今回は天満橋の桜の宮公園から毛馬の閘門、そして淀川べりを十三まで歩きましょう。

JR桜宮駅を降りて大川沿いの桜宮公園を北にとります。現在および将来の都市つくりを進める 「都市計画」では、この桜並木の続く遊歩道と公園、大川の両岸、藤田美術館、蕪村公園、毛馬公園をひっくるめて「毛馬桜之宮公園」とされています。上流の「春風橋」下流の「川崎橋」(いずれも歩行者専用)を通って毛馬桜之宮公園を周回コースは街歩きの人気ルートの一つです。

桜之宮公園遊歩道

桜の木の下を気持ちよく進みます。しばらくすると右側の道の向こうに「さし入れ所」と書いた看板の店が見えます。拘置所に入っている収監者への差し入れには、手紙などは大丈夫ですが、細かい規定があるそうです。そのために、大阪拘置所の唯一指定を受けたこの店が差し入れを代行しているのです。「放免屋」の文字が複雑な感覚を抱かせます。

丸の家・放免屋

この店の隣が届け先の「大阪拘置所」です。現在建て替え工事進行中の新しい拘置所は威圧感の少なく一般のマンションのような明るい建物で、入口のフェンスにも威圧感はありません。しかし、ここは死刑囚も収容されている拘置所で、オームの関係者に死刑が執行されたところなのです。

大阪拘置所

遊歩道に戻り、毛馬橋をくぐり抜けると「蕪村公園」に出ます。2009年に作られ、13基の蕪村の句碑が建てられています。

俳人で文人画家の与謝野蕪村(1716年~1783年)は摂津国東成郡毛馬村で生まれ、17、8歳で江戸に出て俳句や絵を学びます。その後俳句を作り絵を描きながら関東をめぐり後、40歳ころから京都に住まいして、67歳で亡くなります。蕪村の生涯は、晩年はともかく、あまり裕福ではありませんでした。蕪村が芭蕉と並び称されるようになったのは、明治になって正岡子規などの俳人たちがその業績を高く評価してからでした。蕪村はいろいろの土地を訪ねていますが、貧しかった子供の頃の生活を思い出したくなかったからでしょうか、大坂に足を踏み入れた記録はありません。貧しい年月を過ごした土地に造られた、自分の名前の公園とたくさんの顕彰句碑を、天国の蕪村はどんな思いで見下ろしているのでしょうか。

蕪村公園

蕪村公園を過ぎると淀川が大川に流れ込む地点に設置された「毛馬閘門」です。この施設は洪水を防ぐための水量調節と水門方式で船を通すゲート「閘門」を兼ねています。「閘」は水門の意味です。子供のころ、淀川の下流にあるから「こうもん」だと思っていました。そんなことを思い出していると淀川から四艘の砂運搬船がゲートの間に入ってきました。

上流のゲートが開いて船が仕切りの中に入ると、上流のゲートが閉まり水路に船が閉じ込められます。水門の中の水位と大川の水位とが同じレベルになると下流のゲートが開き、船が出ていきます。この間15分ぐらいでした。船の目的地は桜宮駅近くの砂の集積場で、一番大きな船はダンプ20台分ぐらいの砂を積んでいるとのことでした。

この閘門は「届出書」を出すと、日時が限られていますが一般の船も通れます。昔ボートの選手だった同行の氏が「淀川で練習した後、天満の艇庫に戻るのだが、届け出の時間に遅れないように慌てることがあった」と思い出を語ってくれました。長いオールの付いたボートがどうやって通ったのかは聞き逃しました。

初代の閘門は1907年(明治40年に、)2代目は1918年(大正7年)に、そして現在の閘門は3代目で1974年(昭和49年)に設置されたものです。

閘門を通過する船

閘門の脇にあるスロープを登ると淀川に出ます。大阪にこんな広い場所があったのかと、思わず深呼吸するほどの空間です。

琵琶湖を水源とする淀川水域の治水は、大阪平野の課題で、流れの改修は奈良時代から何度も行われています。そして、明治期に入ると、琵琶湖疎水、蹴上発電所、志津川ダムなど近代的な治水利水工事が進められました。

明治18年5月から7月の2か月続いた長雨で、枚方の堤防が決壊し、淀川流域だけではなく、上町台地以外の大阪市内全域が水に浸るという大水害がありました。これをきっかけに守口から大阪湾まで直線的な新しい河を通す大工事が開始されます。大川、神崎川、中津川と3筋に分かれ蛇行して大阪湾にそそいでいた川を一つの放水路にまとめる工事は、フランスで土木工事を学んだ沖野忠雄の指揮のもと、1910年(明治43年)に完成しました。それが現在の淀川です。淀川は時々「新淀川」と呼ばれる理由はこの辺にあったのです。

淀川堤からの風景

河川工事の責任者である沖野忠雄の銅像の前を通って、淀川堤を西に向かって進みました。しかし、左岸は2025年開催の大阪万博のための道路建設で通行不能でで、長柄橋を北に渡って、右岸を歩くことにしました。

長柄橋(656.37m)

長柄橋は1909年に、鉄道専用だった橋(1874年に設置)を作り変えて誕生しました。2代目は1936年(昭和11年)に、3代目はそれにつぎ足す形のバイパスを付け加えました。現在の橋は4代目で10年の工事期間を要して1983年完成したものです。

長柄橋は平安時代の昔から知られる橋ですが、たびたび洪水で流されています。「キジも鳴かずば撃たれまい」(橋が流れないように人柱を提案した本人がそれに選ばれた)「口は災いの元」という話もこの橋が由来です。淀川水域は、洪水のたびに流れが変わり橋も付け替えられているため、昔の長柄橋位置は「今の東三国あたりだっただろう」とはっきりしません。それはともかく、現代の建設技術の高さに敬服しながら、長い橋を渡りました。

長柄橋を渡り、淀川堤を再び西に向かって歩きます。右手を見ると柴島(くにしま)の浄水場とレンガ造りの水道博記念館がみえます。読み方の難しい地名に必ず出てくる「柴島」ですが、調べてみると「元は国島と書いた」「薪にする芝や茎(くき)に柴の字を当て、「くきの島」が「くに島」になった」など諸説紹介されていました。

水道記念館

淀川堤から遠くに見える梅田のビル街の眺めは最高で、川風に吹かれてしばし暑さを忘れさせてくれました。

梅田のビル群

しかし、9月末のこの日は快晴で、強い日差しを浴びながらの「堤歩き」は段々つらくなってきました。「今日はこの辺りで終わりにしようと、阪急電車の鉄橋のそばで土手を降り、信号を渡り「十三東通り」のアーケードに入りました。十三駅前居酒屋のビールで、約2時間の街歩きが終了したこと付け加えておきます。

(文と写真:天野郡寿   神戸大学名誉教授)