2023年4月号 国道2号線
今日は大阪梅田から尼崎まで国道2号線を歩きましよう。
出発点は梅田新道の交差点です。ここは北九州まで続く国道2号線の始点で、国道1号線(東京~大阪)、国道25号線(四日市~奈良~大阪)の終点です。江戸時代の街道は、東海道は江戸から京都まで、大阪と京都間は淀川沿いの京街道で、大阪から西へは尼崎街道で山陽道につながっていました。首都圏と大阪が鉄道で結ばれたのは1889年(明治22年)で、その後陸上輸送が発展していきます。1920年(大正9年)「路線認定」が施行されて、国道1号線・2号線が大阪市内を経由するようになりました。国道1号線から国道2号線が大阪キタの繁華街を横切るこの道は「曽根崎通」と呼ばれています。この周辺の歴史をもう少し紹介しましょう。
1909年(明治42年)現在の帝国ホテルの前にあったメリヤス工場から出火、火は丸一日燃え広がり、堂島川沿いに天満、堂島、福島まで東西一里半、南北15丁、約2万戸が焼失する大火事がありました。その災害復興の事業の一つとして曽根崎通りが、1911年(明治44年)に梅田新道交差点から東天満交差点間、1912年(明治45年)に福島西通交差点から梅田新道交差点間と阪神野田駅から都島区の東野田交差点まで完成したのです。
2号線の始点
曽根崎通の南側は大阪一の歓楽街「北新地」です。現在の北新地本通は「曽根崎川(別名蜆川)」が流れていたそうです。先ほど話した火事で出たガレキの捨て場所になって埋め立てられました。人や物の流れが水運から陸運に移り河川は陸上交通の邪魔になる時代が始まっていたのです。埋め立てられた場所が道路になり、道沿いに次々と店が建てられ、今日見るような歓楽街に発展していったのでした。歩いている道の地下には1997年(平成9年)開業の JR東西線が走っています。
「曾根崎通」と「四つ橋筋」とが交わる「桜橋交差点」を渡ります。交差点の名前は曽根崎川にかかっていた橋に由来します。交差点を少し南に行ったところに桜橋の記念碑が建てられています。
桜橋の記念碑
桜橋交差点を西に進みます。道路の向こう側には2008年(平成20年)完成、高さ174.9m、ドイツ人建築家クリストフ・インゲンホーヘンが設計した「ブリーゼタワービル」が見えます。ここは元サンケイホールがあった場所です。完成時は大阪で1、2を争う高さだったのですが、今では27番目とか。高層ビル建設がどんどん進められていることがわかります。ビル内のホールでは伝統を引き継いで、落語や演芸を、もちろんコンサートなども催されています。
ブリーゼタワービル
少し行くと「出入橋交差点」です。ちょっと変わった地名ですが、水運の盛んな頃、ここに堂島川と国鉄梅田駅を結ぶ運河があり、運搬船が出入りするところから名づけられた地名なのです。運河は1960年代に高速道路の建設でなくなり、頭上には阪神高速が通ってます。交差点のわきにある「きんつば屋」は、めずらしい屋号も手伝ってかなかなかの人気だということです。
出入橋きんつば屋
出入り橋の交差点を北に渡ると、都会のオアシスのような広場「西梅田公園」があります。この公園は1905年(明治38年)神戸―大阪間に開通した阪神電鉄の終点「出入橋駅」の跡地だそうです。阪神電車は、1906年に梅田まで延伸し1939年(昭和14年)に地下駅となったそうです。
西梅田公園
西梅田公園から2号線の北側歩道を西に向かって進みます。この辺りには写真のような尖った家が多くみられます。2号線と脇道が鋭角に交わっているのです。2号線(曽根崎通)の建設が古い区画を無視して進められたのか、それとも地域の人が道路整備に反対したのか、その理由はわかりませんが、近代化が急速に進んだように感じられる場所です。しばらく行くと「浄正橋交差点」に差し掛かります。ここは「じょうせい」橋と言うたら、同行の氏から「じょうしょうと読むんや」と訂正されました。「エライすんません!」今回初めて知った次第です。
浄正橋交差点を南北に通るのが「なにわ筋」で、右手(北方向)はJR環状線の福島駅、足元の地下は阪神電車とJR東西線の新福島駅です。福島駅周辺はご存じのようにグルメの街として人気上昇中です。「JR梅田北地区」からなにわ筋を通る「なにわ筋線」の建設が、2031年の完成を目指して進められています。ここに新しい地下鉄が走る計画ですが、財政や完成後の有効性などの問題が山積しているようです。
しばらく行くと右手に「ミナミビル」という看板の古い建物が目に入ります。これは1934年(昭和9年)に矢部又吉の手によって建てられた「旧川崎貯蓄銀行福島出張所」です。矢部は南船場にある「堺筋倶楽部」も設計しており、いずれの建物も国の有形文化財に登録されています。入り口のドアーから覗くと、中には服地がたくさん飾られていました。オーナーの「ミナミ株式会社」は服のデザイン会社のようです。
旧川崎貯蓄銀行
文化財の建物を通り過ぎると福島4丁目交差点です。ここから阪神電車が地下に出入りするのが見物できます。阪神電車の地下化が完成して福島駅が地下駅になったのは1993年(平成5年)でした。それまで阪神電車は先ほどの歩いた「西梅田公園」あたりから地上を走っていて、なにわ筋にあった踏切は「開かずの踏切」で有名だったそうです。阪神が地下に潜ってから福島駅周辺はオフィス街に、そして小粋なレストランのある街に変身したのです。
福島4丁目から阪神電車が地下に入ります
阪神の野田駅が高架になったのは1961年(昭和61年)でした。ここからから2号線は右斜めに進みます。阪神電車のガードをくぐってしばらく行くと、風景ががらりと変わります。周りに高い建物がなくなり、空が広がり都会の喧騒が消え去ったのです。
野田を過ぎた風景
「中海老江交差点」を通過して「淀川大橋」(長さ724m1926年完成)に向かいます。橋のたもとは淀川沿いの万博道路の工事が進められています。「万博に間に合うんやろか」と余計な心配をしながら橋を渡ります。この橋の上からの「梅田のビル街の遠景」は一見に値します。夜景はもっときれいかもしれません。
淀川大橋からの眺め
スタート地点の梅新は「北区」でした。出入り橋からは「福島区」、そしてこの淀川大橋を渡ると「西淀川区」です。橋を渡ってまず目に入ったのが「宝くじ売り場」です。そして左右にはNISSAN、HONDAの国産車だけではなく、YANASEなど外車を扱う店が並んでいます。交通量の多い国道沿いに車の販売店を建てるという展開の、最初の地域だったのでしょうか。しばらく行くと、その昔交通渋滞の筆頭に出てきた「歌島橋交差点」です。
歌島橋交差点の道路標識
5差路の交差点には歩行者横断歩道が見当たりません。歩行者や自転車はスロープ付きの階段や4か所に設置されているエレベーターで地下道を通って道路の反対側に渡ります。この地下道は、交差点の交通渋滞を解消、歩行者自転車の安全、環境保全の施設として、国が地域住民の意見を取り入れ2009年に完成しました。自転車置き場も設置されている地下道は1997年(平成7年)に開業したJR東西線「御幣島駅」にもつながっています。
歌島橋交差点地下道
「歌島橋交差点」と呼ばれるものの「歌島橋」そのものは交差点の少し手前(大阪寄り)にあります。
歌島という地名は1925年(大正14年)加島、御幣島、野里が合併した時に「加」と「歌」との音が同じということで選ばれたと伝えられています。
大野川緑陰道路(別名大野川遊歩道)
歌島橋の下は歩行者・自転車専用道路「大野川緑陰道路」(1979年完成)が通っています。大野川は神崎川と淀川を結ぶ運河でしたが時代と共にその利用価値がなくなり、汚染が進み70年代初めに埋め立てられました。市は跡地に高速道路建設を予定していましたが、住民からの強い要望で遊歩道が作られ、現在の姿になったということです。
高度成長の時代は「公害」に悩まされた時代でもありました。そんな中、この地域住民が公害を排出する企業や国を相手に「被害救済と環境基準順守」を求めて訴訟を起こしました。その結果、先程の歌島橋交差点の地下道整備や河川の公園化などが公害対策の一環として進められたのです。最近の調査は、この地域がきれいな環境を取り戻しつつあると報告されています。
歌島橋交差点からしばらく行くと神崎川にかかる「神崎大橋」(長さ224m、1927年完成)に到着します。橋の両側には、洪水や高潮の被害を防ぐ大きな門扉が設置されています。川の右岸左岸にある堤防は、橋の入り口・出口では人や車通行のために途切れています。川の水位が上がってきたとき、市街地へ水が流れ込まぬように、この20m以上もある赤い扉が右側にずれて堤防の空間を封鎖するのです。もちろん前に渡った淀川大橋にも、同じ装置が設置されています。このような門扉は海抜ゼロメートルの地域になくてはならない防災装置なのです。
防潮鉄扉
橋を渡ると「佃」の町です。ここは佃煮で有名な東京の「佃」のご先祖さんの出身地です。その説明には徳川家康にご登場願わねばなりません。佃の住人と家康つながりは、秀吉の時代から始まっていました。大阪湾で漁や海運を手掛けていた佃の住民は、家康の多田神社や住吉神社参拝のとき、またその後の大坂の陣でも船の調達をしました。その後幕府は佃の住民に江戸での漁業権を与えるだけではなく、江戸での定住も許可します。なにわから江戸に移り住んだ人が、その地を故郷と同じ「佃」と命名したということです。
佃の町を通過して大阪市と尼崎をつなぐ「左衛門橋」を渡ります。
左衛門橋にある看板
橋の中央部に写真のような看板があります。交通案内ではなく、事故があった時の「連絡先の表示」なのでしょうか。この看板のある境界線上では問題を起こさないように気をつけましょう。橋のすぐそばの工場の壁に「ようこそ尼崎市へ」と書かれています。これ気が利いていますね。
工場の壁
尼崎市の電話の市外局番は大阪と同じく06です。昔は尼崎から大阪への電話は、市外通話は交換手を通すので時間も料金もかかりました。1954年関西の電話の自動化と市外局番整備が行われた時、当時の電電公社は市内通話7円、市外通話はその倍という電話料金を示しました。大阪と同じ市外局番の実現には当時の額で2億円以上の電電公社債権購入が必要でした。これに対して尼崎の企業は一致団結して資金を集め「市外局番06」を実現したのです。尼崎の会社の心意気がうかがわれる話です。「尼崎」は工場と煙の街のイメージがありましたが、最近は空気もきれいになり、大阪・神戸の中間という位置も手伝って、住みやすい地域として注目され始めています。
ここで2時間ほどの2号線歩きはオシマイ。戦前から使われてきた宣伝文句「待たずに乗れる阪神電車」の「杭瀬駅」から帰途につきました。
(文と写真:天野郡寿 神戸大学名誉教授)