「長堀通」は木津川の伯楽橋西詰(西区)から今里交差点(東成区)を結ぶ約6kmの東西の幹線道路の愛称です。ざっくり言うと、大阪メトロ心斎橋駅を北に出ると御堂筋、そこに交わる道路が「長堀通」です。通りの人の多さはともかく、まず道路の幅の広さに驚かされます。車道は上下3車線、それに道路の中央部には緑地がつくられています。運河だった「長堀川」に川沿いの道路が加わって誕生した道路なのです。

長堀川は1622年(元和8年)に東横堀川から木津川まで、市街を東西に結ぶ2.5kmの幹線運河でした。陸上輸送が中心になり河川はあまり使われなくなり、大阪市内の運河も次々と埋め立てられました。この長堀川も例外ではなく1960年(昭和35年)から10年をかけて埋め立てられました。長堀川に架かっていた橋もすべて姿を消し、昔の橋は南北をつなぐ道路の交差点になりました。その交差点の名前の由来を尋ねるのも今回の街歩きの楽しみです。

大阪メトロ心斎橋駅の北口から地上に出ると、そこが本日の出発点、長堀通と御堂筋が交わる「新橋」の交差点です。御堂筋は1937年(昭和12年)完成しましたが、完成まで11年もかかりました。地盤が軟らかかったのと、地下鉄線の併設が工事を長引かせたのだそうです。御堂筋の誕生と同時に架けられた橋は「新橋」と名付けられました。実は大阪育ちの私ですが、この交差点を「新橋交差点」というのを初めて知った次第です。近代的な道路に新しい橋に「東京には負けないぞ!」との思いが込められたのでしょうか、大阪のエネルギーを感じる命名だと思いました。

新橋交差点

新橋交差点を西に渡ると南北に走る西横堀川を埋め立てて建設された阪神高速環状線(1964年完成)の下に出ます。ここは東西に流れる長堀川、南北方向の西横堀川が交差し、それぞれの川沿いの道をつなぐ橋が井桁状になっていたことから「四ツ橋」と呼ばれた場所です。「涼しさに四ツ橋を四つわたりけり」という江戸時代の俳句があります。近くには色町があって、昼も夜もにぎやかなそして夏の夕涼みの名所でもあったのです。1937年(昭和12年)電気にかかわる博物館の電気科学館が開館しました。その最上階にあったプラネタリュームは学習の場として、大阪市内の小学生はもとより他府県の修学旅行生も見学に訪れたそうです。大阪育ちの私もその見学者の一人でした。椅子がゆっくり傾いて大阪の夕景色から始まる天体ショーに見入ったことをおぼえています。電気科学館は1989年(平成元年)に閉館し、中之島地区にあたらしく建てられた大阪市立科学館にその役目を譲りました。

高速道路の高架の少し西に位置する四ツ橋交差点に、「四ツ橋」の記念碑が建てられて

います。木立に囲まれた記念碑広場はビルの谷間の憩いの場となっています。

「四ツ橋」の記念碑

四ツ橋の記念碑の前を南北に走っているのが四つ橋筋です。この道路は昭和の初期までは梅田と難波を結ぶ重要幹線道路だったのですが、御堂筋にその地位を譲ってから脇道となって、渋滞の多い道路でしたが1970年(昭和45年)北向き一方通行になってからは車の流れの良い道路になりました。地下にはメトロ四つ橋線(1965年開通)が通っています。ついでですが、橋と交差点は「四ツ橋」道路は「四つ橋筋」と表記するそうです。

次になにわ筋の交差点を西に渡ります。なにわ筋は大淀1丁目(中津)から西成区潮路2丁目(松虫通)までの8.3km、戦災復興都市計画によって進められた市内を南北につなぐ道路で、全線開通したのが2010年(平成22年)で、2013年(平成25年)に4車線に拡張され交通渋滞の少ない現在のかたちになったのです。

長堀通の中央部の広場に「間長涯(ハザマチョウガイ)」の碑があります。

間長涯の碑

あまり知られていませんが、間長涯(1756年~1816年没)は大阪の商人でありながら幕府の暦編纂に呼ばれるほど、知る人ぞ知る天文学者です。その天体観測の場所であった「富田屋橋」がこの辺りに架かっていて、長涯の観測時には「橋は通行止め」が許されていたそうです。大正時代の地図にも富田屋橋は描かれていますが、橋の名前の由来などはよくわかりませんでした。

次に渡るのが「白髪橋交差点」です。この変わった橋の名前は、江戸時代に木材を藩の名産としていた土佐藩の「白髪山」という銘木を産する山の名前から名付けられたというのが有力だそうです。

ここで交差点の少し南にある「和光寺」に立ち寄りましょう。

和光寺内阿弥陀池

和光寺の縁起には「百済から欽明天皇に献上された阿弥陀如来像を物部氏が難波の堀江阿弥陀池に捨てた。推古朝になり、僧本田善光がそれを拾い上げて長野に安置され、そこが後に善光寺になりました。元禄時代に善光寺が四天王寺で出開帳を開いたとき、この伝説にのっとって池のあるこの寺に本尊を祭るお堂を建てたのが寺の始まり」と書かれています。

この寺内にある「阿弥陀池」という上方落語があります。粗忽な男にご隠居さんさが「新聞を読まなあかん。こんな話知ってるか」というところから話は始まります。

ある男が和光寺にピストル強盗に入った。そのとき寺を守っていた尼さん、なんと偶然にもこの男の軍隊時代の上官の奥さんだった。尼さんが「あなたは強盗をするような人ではない。誰かに行けとそそのかされたのでしょう」と問いかけると、男は「阿弥陀が行け(池)と言いました」と答えたんや。ここまで聞いて粗忽な男はやっと「なんや、落とし噺ですか」と、からかわれていたことに気づきます。「そや新聞読デヘンから、騙されるンヤ。ところで裏の米屋に強盗が入ったン知ってるか」と続きます。この落語のおかげで、和光寺というより「阿弥陀池」の方が有名になったという、大阪の名所の紹介でした。お後がよろしいようで。

長堀通りに戻りましょう。「鰹座橋交差点」を西に渡ります。南北の通りは「新なにわ筋」です。新なにわ筋は阪神野田交差点から大和川の阪堺大橋まで約11kmを結ぶ幹線道路です。交差点の地下にはメトロ千日前線と長堀鶴見緑地線の「西長堀駅」があり、交差点の北は「阪神高速西長堀入り口」です。先ほど通ってきた白髭橋からこの辺りにまでには土佐藩蔵屋敷が並んでいました。材木だけではなく鰹も土佐藩の名物でした。その鰹の取引が行われていた場所なので鰹座橋と名付けられたのだそうです。

長堀抽水所

少し行くと「長堀抽水所」と書かれた看板がありました。抽水(ちゅうすい)とはあまり聞いたことのない施設です。ネットを見ると、下水の処理と降雨時の浸水被害を避けるための下水放出量の調整をする施設で、市内には同様の設備が58か所もあることがわかりました。ゆったりとしているように見えるこの地域ですが、実は海抜ゼロメートル地帯なのです。この施設はこの地域に欠かせない、重要な役割を果たしているようです。

次に渡るのが「玉造橋交差点」です。「玉造は環状線とチヤウ?」と、大阪人なら疑問を持つ地名です。江戸時代、大阪城の南東に与力・同心の住む「玉造八ヶ町」という地域がありました(今のJRの玉造駅の近くです)。その後、役人の数が増え、そこが手狭になって移転先に選ばれたのがこの場所でした。当初は「新玉造八ヶ町」と、そこに通じる橋を「新玉造橋」と名付けたのですが、いつの間にか「新」がなくなったというのが「玉造橋」の由来です。

伯楽橋

やっと長堀通の西の起点の伯楽橋に到着しました。伯楽橋は1908年(明治41年)に誕生した市電専用の橋です。大正時代に書かれた『大阪パノラマ地図』(建物や船なども描かれている絵図です)を見ると、九条から来た市電が伯楽橋を東に曲がり、長堀北通りを東へ末吉橋へ、そして上本町2丁目まで走っていたことがわかります。現在の伯楽橋は2006年(平成18年)に拡張・新築されたものです。長堀通の西の起点とされているこの橋、実は長堀川の橋ではなく、実は南北に流れる木津川に架かっている橋なのです。

今日の街歩きはここでおしまい。帰りは「グリーンプラザ公園」を通って御堂筋方向に帰るのもよし、あるいは木津川沿いを阪神難波線のドーム前駅かJR大正駅まで歩くのもお勧めです。

次回は長堀通を心斎橋から東横堀川の末吉橋を東に、上町筋からJR玉造まで、東に向かって歩きます。

(文と写真:天野郡寿   神戸大学名誉教授)