2023年10月号 心斎橋から今里まで

 

前回の続きで、長堀通を心斎橋から東に向かって歩きます。地下鉄御堂筋線の心斎橋駅を降りて、心斎橋筋を北に少し歩くと長堀通にでます。そこが心斎橋交差点です。御堂筋の一つ東側の心斎橋筋の横断歩道は幅が広く、左右にはガス灯や欄干がつけられています。なぜ歩道に橋のモニュメントが飾られているのか、心斎橋の歴史を少したどってみたいと思います。

長堀通が、長堀川埋めて造られたことは前回お話ししました。昔、この辺りは長堀川をはさんで北は船場、南は島之内と商家が立ち並び、西には新町と呼ばれる色町があって、昼も夜もにぎやかな商都大阪の中心ともいえる場所でした。長堀川が開削されたのが1622年(元和8年)で、心斎橋は開削当時、すぐに架けられ当初から人通りが多かったといわれています。橋の名前はこの辺りを商業地盤し開削資金提供者の一人でもあった岡田心斎に由来しているそうです。木橋だった心斎橋は1873年(明治6年)鉄橋に架け替えられました。鉄橋としては日本で5番目、当然ドイツから輸入品でした。アーチ形の鉄橋の心斎橋は絵葉書が売り出されるほど人気で、大阪の新名所となりました。ところが鉄の心斎橋は1908年長堀川から取り外され西区の境川運河に、そして1928年には西淀川区の大和田川(神崎川の支流)の新千船橋に道路橋として移設されたのです。

当時は、年々増えてきた陸上輸送に対応できる強度のある鉄橋が求められる時代でした。日本で製鉄が開始されたのは釜石製鉄所が1880年(明治13年)、八幡製鉄所が1901年です。鉄の国内生産はまだまだでした。そんな状況下、鉄橋の心斎橋は産業界から「目をつけられる存在」だったのです。

「人しか通らない心斎橋に鉄橋はもったいない。車の通る橋を作ります譲っとくナハレ」「よろしオマス、持って行きナハレ。後には新しいのを架けまっサカイ」

こんな相談があったのかなかったのか、大阪商人の太っ腹で、鉄の橋は交通量の多い場所で使われたのでした。

心斎橋の鉄橋と石橋(当時の絵葉書より)

驚いたことに、あちこちで活躍した鉄橋の心斎橋、今でも見ることができるのです。1973鶴見緑地公園に「すずかけ橋」の名前で、日本最古の鉄橋として移設・保存されました。その後1990年の大阪花博では、鶴見緑地公園の緑地西橋の欄干として飾られているのです。鉄のアーチは今でも現役かと思ったのですが「鉄としての寿命は尽きているので、緑地公園に来た時から残念ながら橋の強度にはかかわっていない」のだそうです。「鉄の心斎橋、ご苦労さんでした!」

保存展示の心斎橋鉄橋

もう少し心斎橋の話を続けます。鉄橋を取り外した跡に石橋の心斎橋が取り付けられました。設計者は野口孫市、現在文化財になっている中之島の大阪府立中之島図書館を手掛けた人物です。欄干にガス灯が輝くヨーロッパ風の石橋の心斎橋はまたまた人気の場所となりました。それから半世紀、1964年に長堀川が埋め立てられて車の通る道路がつくられました。長堀川に架かっていた橋はすべて取り外され姿を消しました。しかし心斎橋は壊されませんでした。欄干やガス灯が取り付けられたまま持ち上げられて、長堀通を横切る「歩道橋」として生き残ったのです。しかし石段を登ることが嫌われたのでしょうか、歩道橋はあまり人気がありませんでした。そして1997年クリスタ長堀(地下街)の完成時に石橋の心斎橋は取り壊されました。現在横断歩道のわきに飾られている欄干やガス灯などはそのレプリカなのです。心斎橋の話が長くなりました、街歩きに戻りましょう。

心斎橋交差点を東に進むと「三休橋交差点」です。三休橋は、心斎橋とその東の「中橋」「長堀橋」が修理のための通行止めになることが多く、その迂回のための橋といて架けられたのだそうです。橋名の由来は「三つの橋が通行止め、すなわち休む時に使う」という説もありますが、はっきりは分かりません。いずれにしても、当時この辺りの人やモノの流れは、もう一本の橋を必要とするほど多かったことがわかります。

つづいて堺筋と交わる「長堀橋交差点」に出ます。交差点の南東に長堀橋跡の記念碑が置かれています。大阪を代表する通りは、今では御堂筋ですが、60年代まではこの堺筋が大阪の中心でした。当時は北浜から本町そして日本橋まで、堺筋には銀行の本店やデパートがずらっと並んでいたのです。

長堀橋記念碑

バス駐車場

長堀通の中央部に観光バス専用の駐車場が設けられています。長堀通りの幅の広さを改めて感じさせる広い駐車場に、この日は数台のバスがとまっていました。コロナでガラガラだった街に団体観光客が少し戻ってきたようです。

長堀通の北側の歩道をさらに300m東に進みましょう。阪神高速環状線の高架下の東横堀川に東西に架かっているのが「末吉橋」、交差点は「末吉橋西詰」です。「末吉橋」は、江戸時代南蛮貿易で活躍した平野の豪商末吉孫右衛門が資金を出して、修理などは「町衆」によってなされてきた「町橋」でした。その末吉橋を渡り上町台地へのゆるい坂道をやや左斜めに進む「松屋町筋」に出ます。

大阪では南北の通りを「筋」東西を「通」と呼ぶのはよく知られていますが、江戸時代の地図を見ると「松屋町通」「堺筋通」と書かれていますので、この区別は明治以降からだと思われます。

松屋町の交差点の南東から坂道を上ると高津原橋の南詰めに出ます。骨屋町筋は車一台がやっと通れるぐらいの狭い道で、切通しでちょん切られたとはいっても橋でつなぐほど重要な道路だったのかと疑問がいっぱいになりました。それはともかくこの高津原橋は昔の上町台地の高さを示す標識的存在なのです。

高津原橋

高津原橋をくぐって東に向かうと谷町筋の谷町6丁目の交差点です。道幅40mの谷町筋は、東西に走る幹線道路との交差点がアンダーパス(地下自動車道)になっていて、天満橋と阿倍野橋を結ぶ車の流れの良い幹線道路となっています。道路の両側には高いビルが立ち並び、少々曇った日でも南に「あべのハルカス」が傍観できます。

さらに東に進むと上本町1丁目の交差点です。交差点の南西角にちょっと変わったビルがあります。大正時代の地図には「市電車庫」と書かれているこのビル、土地の人は「市バスの車庫だった」と教えてくれたのですが、関電の変電施設が正解のようです。

この交差点は上町台地の一番高いところで、南北に走るのが上町筋です。上本町1丁目の交差点を東に渡ると道は緩やかな下りになります。道路の南側に1901年大阪府立清水谷高等女学校として開校された清水谷高校が見えます。現在は男女共学ですが、昔は大阪の「イトハン」の通う名門校でした。道路の左に玉造稲荷分社の鳥居脇に「浪花講発祥の碑」があります。

浪花講の記念碑

江戸時代の旅は「御師」が案内する「伊勢講」など団体での寺社詣が中心でしたが、江戸末期になると案内者なしの物見遊山お旅行が増加しました。文化元年(1804年)安全な旅を提供する旅館組合「浪花講」(結成当初は「浪花組」)が誕生したのがこの場所です。この講に加盟している宿屋は軒先に「浪花講」の看板を掛け、会計の明瞭さ、賭博の禁止や飯盛り女(売春行為をする場合が多かった)を置かないことを申し合わせていました。浪花講の鑑札を持った旅人は、宿場の客引きに惑わされずに浪花講の宿に泊まることができたのです。浪花講はやがて宿泊接待だけではなく、名所案内や土産物の紹介などもするようになったそうです。

JR玉造駅の東に「二軒茶屋跡」の記念碑があります。昔の旅は見送りの人と送別の宴が付きものでした。それを目当ての2軒の茶屋がここにあったのです。玉造は生駒山を越えて奈良や伊勢などへの旅の出発点でした。浪花講の詰所で鑑札を入手した旅人は、この茶屋で会食して旅立ったのでしょう。最盛期には年間300万人を超えたといわれている伊勢参りです。それから想像すると、当時二軒茶屋付近は大変にぎやかな場所だったと思われます。

二軒茶屋の石碑

玉造の地名は鉄砲の玉を作る大日本帝国陸軍の砲兵工廠があったからではありません。古代に勾玉を作る「玉造部」がこの辺りに居住していたことに由来します。

環状線の玉造駅から東成区役所の前を通りすぎると本日の終点「今里交差点」です。東を見ると生駒山がかすんで見えました。伊勢参りは、あの生駒山の暗がり峠を超えて歩いて行ったと思うと「昔の人は偉かったのだ」と再認識した次第です。この交差点は、南北は今里筋、南西に向かう千日前筋、そして今まで歩いてきた長堀通から生駒に向かう308号線との五差路になっています。この交差点は、地下鉄千日前線と今里線の「今里駅」もある交通の要所といえます。

大阪のど真ん中の心斎橋から歩き始めたのですが、ビルの高さはだんだんと低くなって、環状線の玉造駅を超えると空が広くなり、車も少なくなって心も晴れ晴れとなりました。地下を走る新しい今里線には東成区・生野区そして東住吉区などの大阪市の東の地域の活性化が期待されています。最近は街中の高層ビルに住むのが流行ですが、空気もきれいし、環状線や地下鉄の走るこの辺りを選択肢に入れるのも良さそうです。とにかく「大阪市の東部のことをもっと知らんとアカンなー」というのが今日の街歩きの収穫でした。

(文と写真:天野郡寿   神戸大学名誉教授)