2024年1月号 近代ゴム産業発祥の地、神戸を歩く

 

会報の編集者から、近代ゴム産業の発祥地神戸を歩いてみませんかと提案されました。神戸でゴムを手掛けたのは住友ゴム工業㈱で、会社は神戸市中央区脇浜にあります。脇浜は江戸時代の「西国街道」の道筋にあって、街歩きには格好のルートです。早速行くことにしました。スタートはJR「灘駅」です。きれいで清潔感あふれる駅舎は、阪神大震災(1995年)の後に新築された建物です。

駅を海側に出て坂道を下ります。阪神岩屋駅前の交差点を西に、六甲山を右手に見ながら三宮に向かって進みます。ついでながら、神戸では「南北」とは言わずに「海側」「山側」と言います。神戸育ちの友人は「大阪に行ったら山が見えないし、坂がないので方向がわからん」そうです。

この東西の通りが昔の「西国街道」です。西国街道は京都から下関あるいは大宰府までを、狭義には京都から西宮の区間(山崎通)を、あるいは山陽道として西宮から下関間の区間を指すこともあります。西宮の甲武橋(武庫川に架かるR171の橋)から神戸三宮までは22,1㎞とかなり距離があるのですが、健脚でない人もぜひ挑戦してほしいルートです。道路標識も完備していますが、それよりも心強いことは、街道筋と並行して阪神・JRそして阪急電車が走っていることです。歩き疲れたらすぐにどれかの電車に乗ってください!

道沿いの案内碑

西に進むと海側に大きなマンション、敷地の西に神戸製鋼関連の建物があります。ここは昔神戸製鋼の本社ビルがあったところです。海側国道2号線(43号線)の南側に目をやると、神戸製鋼の新社屋が見えました。あそこに引っ越したのですね。

震災後にきれいになった公営マンション群を通過すると、住友ゴム工業㈱の本社の前にでます。

住友ゴムの本社ビル

この地が日本の「近代ゴム産業の発祥の地」とされています。しかし調べてみると日本の「ゴム工業の発祥の地」は三か所―東京の上野、福岡の久留米、そして神戸―指定されていることがわかりました。上野の「土谷護謨製造所」は1886年(明治19年)にゴムに硫黄を混ぜる技術を完成させた場所です。大正時代に「三田土ゴム製造」と社名が変わりました。ここではボールや消しゴムを製造していました。久留米はブリジストンの発祥の地で、タイヤ生産のスタートは1931年(昭和6年)です。大正時代は主としてゴム製の地下足袋生産が中心でした。3つ目はここ神戸の住友ゴムです。どこをゴム工業の発祥の地とするかは「それぞれに歴史があって決められない。三か所あってもいいのではないか」という業界関係者の言葉が紹介されています。

ご存じの方が多いと思いますが、住友ゴムは1909年(明治42年)英国グリア商会の資本を中心とした外資系の日本支社として設立され、自転車や人力車のチューブ、ゴム管、ゴム手袋、水枕などを製造し、タイヤの生産開始は1913年(大正2年)でした。『住友ゴム100年史』には1894年営業開始した兵庫県住吉村「ラバー商会」も紹介されています。

会社の敷地内に「近代ゴム産業発祥の地」の記念碑があります。一般公開はされていませんが、お願いしてみたところ『西部工業用ゴム製品卸商業組合』関係者の希望ということで、特別に敷地内見学と写真撮影が許されました。

「近代ゴム産業発祥の地」の記念碑

写真の記念碑は住友ゴム創業80周年記念として1989年建立されたものです。創業当時の工場はモダンなレンガ作りだったそうで、プレートが取り付けられているレンガの壁は当時のものです。阪神淡路大震災以前、この場所にはタイヤとゴルフボール生産工場がありました。震災後は環境問題などがあって工場再建を断念し、機械設備は名古屋など他のタイヤ工場に移設、ゴルフボールの生産拠点は市島に移し、ここ脇浜にタイヤとゴルフボールの研究施設が集められたそうです。本社ビルに展示されている自動車タイヤ国産第一号を見せてもらいました。ピカピカで古さを感じさせません。どんな車に取り付けられていたのか、想像をめぐらすだけで楽しくなる展示物でした。(住友ゴムの歴史については『住友ゴム100年史』『住友ゴム八十年[中原1] 史』を参考にしました)

自動車タイヤ国産第一号(1913年製)

研究棟が立ち並ぶ敷地の片隅に日吉大明神(災難除けの神)の祠があり、その前にビオトープが造られていました。ビオトープではカワバタモロコなどの絶滅危惧種の育成に挑戦中とのこと。研究・開発が進められている建物とビオトープや神さんの祠が、違和感なく心地良い調和を醸し出していました。

住友ゴムの工場から再び西国街道に戻りました。山側に「住友ゴム無響実車研究室」と書かれた建物がありました。どんな研究をしているのか気になり調べてみると、タイヤの摩擦やノイズ、抵抗係数を実際の自動車を持ち込んで計測分析しているとありました。研究所の名前も研究の内容もむつかしいのですが、安全なタイヤ作りのための研究が進められていることだけは、素人の私にもよく理解できました。

阪急電車の春日野道駅から2号線まで続く、南北に長い春日野道商店街を横切ると、大安亭の商店街の前に出ました。明治時代に「大安亭(おおやすてい)」という浪花節の寄席小屋があり、寄席は昭和15年ごろに閉鎖されたのですが、地域にその名が残ったのです。道路沿いに大きなマンションもなく、通りはとても静かです。震災以前はもっとにぎやかだったのでしょうか。

大安亭市場入り口

生田川にかかる雲井橋を渡ります。この生田川は昭和に開削された新しい川筋です。以前の生田川は今の位置よりも西の現在フラワーロードと呼ばれている道筋、新神戸駅から加納町・JR・阪急のガードをくぐり市役所前に続くルートを流れていました。

生田川の雲井橋

明治時代の加納町あたりは競馬ができるほど広い砂地だったそうです。雨が降ると水害が発生するため人工の川が作られ、その後暗渠になり川筋は地下をながれ、その上には幅の広い道路が通されました。ところが1938年(昭和13年)の「阪神大水害」で神戸・芦屋を集中豪雨が襲いました。流木土砂や岩などがこの暗渠の入り口をふさぎ、土石流があふれ出し、神戸市だけで死者616人、家屋の流失5054戸という大きな被害をもたらしたのです。水害から街を守るために、新神戸駅からまっすぐ海に流れる現在の生田川が造られたのです。

現在の生田川

橋を渡って西に進むとJR三宮駅の東口に出ます。西国街道には本街道と浜街道の二筋の道があり、阪神電車の香露園駅あたりで分かれて生田神社あたりで合流していたそうです。山側の本街道は大名行列などが通り、浜街道は庶民が通ったと伝えられています。今日歩いたのは本街道の一部です。西国街道は、ここから神戸大丸の山側を通って、今はアーケードになっている元町本通商店街を西に向っていました。

今日の街歩きはJR三ノ宮駅でお終いです。次回は「三ツ星ベルト」をはじめ「ゴムの街」といわれる兵庫・長田地域を歩く予定です。お楽しみに。


 [中原1]百年史?

(文と写真:天野郡寿   神戸大学名誉教授)