2024年4月号 なにわ筋PART1

 

今日は市内を南北に通る広い道路「なにわ筋」を歩きます。なにわ筋は「戦災復興都市計画」のもとに建設された、大淀中交差点から西成区潮路2丁目まで8.3キロの道路です。スタートは、環状線の福島駅から500mほど北の十三バイパスの「大淀中交差点」です。

昭和の初めに造られた御堂筋は完成まで10年を費やしたことでもわかるように、都市での道路工事は技術もさることながら、立ち退きという難問の解決が必要で、計画以上の長い年月がかかりました。南北に長いなにわ筋は、大淀中交差点から長堀通りまで開通したのが1960年代、西成区内の南進工事の着工が1996年、2010年に潮路までの2車線を4車線道路に拡張して、やっと2013年に完成をみたのでした。

大淀中1丁目

大正末に描かれた『大阪市パノラマ地図』(国際日本文化センター・データーベースをみると、中津から十三大橋を迂回する十三バイパス(写真の高架道路)の通りは、高架ではなく「大仁新道」と書かれています。そして道路沿いには「北野中学校」(学校の前身は堂島にあり、1931年現在の場所に移転)、少し南の方には「関西商工」「大阪商業」「関西大学福島学舎」(いずれも当時の学校名)という名前が並んでいます。この辺りは文教地区だったようです。現在道路沿いには高いマンションが立ち並んでいる静かな雰囲気の街を南に向かって歩き始めました。

なにわ筋の一つ西の筋にザ・シンフォニーホールがあります。あのカラヤンが絶賛したという音響の優れたホールが完成したのが1982年です。もう半世紀近く前の話です。

ザ・シンフォニーホール

少し南に進むと「関西将棋会館」のビルの前を通ります。兵庫県出身の谷川浩司永世名人も通ったこの建物はJRの車内からも見え、将棋ファンにはおなじみの場所です。1981年に建てられた会館はかなり老朽化しているらしく、2024年に高槻駅近辺に移転するとのことです。

JR東海道線の高架線、それに並んで壁の見えるのが阪神高速道路、ガード下の向こうはJR環状線福島駅を眺めながら歩きます。

JRの高架をくぐると、環状線の福島駅(1898年西成鉄道の駅として開業)です。高架の手前にJRの踏切があり新大阪駅と関空を結ぶ列車が走っています。2031年開通予定の新大阪駅から大阪梅田北駅を通って関空に通じる「メトロなにわ筋線」が完成すると踏切も線路もなくなる予定です。

その昔、福島あたりは大阪湾に出る船が風待ちをする場所で「餓鬼島」と呼ばれていたそうです。それが縁起の良い「福島」となったのは、天神さんの菅原道真のおかげです。失意に暮れて舟に乗る道真を地域の人たちは心温かく接待し、そのもてなしに大いに感激した道真が「この地を福島と呼ぶように」と、このめでたい地名を与えたと伝えられています。(異説あり)

阪神ホテルの正面

阪神ホテル(正式名:ホテル阪神大阪、1967年開業)に「徳次郎の湯」という入浴施設があります。ホテル建設時に地下1000mまでボーリングして湧き出したこの温泉の名前も菅原道真に由来しています。「徳次郎」という名が、先にお話した道真の通過を接待した記録に残っているそうで、掘り当てた温泉にその名を拝借したのです。

ホテルの入口に大きな看板がかかっていました。「軒を貸して母屋が…」と余計な心配をするほどの大きさでした。

国道2号線との交差点は浄正橋交差点です。浄正橋と名前がついていますが、橋はもう少し南にありました。という事はここには川は流れていなかったのです。ちょっと長くなりますがそのあたりを調べてみましょう。

江戸時代には堂島川と平行に「曽根崎川(通称蜆川)」が流れていました。市役所のそばの水晶橋あたりから北新地本通を西に流れ、ABC放送ビルや関電病院の北から堂島大橋を超えたところで再び堂島川に合流する幅の狭い川でした。1909年(明治42年)「北の大火事(天満焼け)」で曽根崎あたりは全焼し、曽根崎川はそのガレキの捨て場となって埋められ、川筋は現在の新地大通という道路になりました。道路になったことで人の流れがよくなり、歓楽街北の新地はますます賑やかになっていったのです。曽根崎川の西の部分は大正時代の末に埋められ道路になりました。浄正橋はABC放送ビルの北西の交差点に架かっていました。

福島駅から玉江橋に通じる道路は「浄正橋筋商店街」と呼ばれていて芝居小屋が2軒もあり心斎橋にも負けないほど賑やかな地域でした。すぐ南には堂島川の大きな玉江橋があるのに、なぜこのあたりが浄正橋通と呼ばれたのかはよくわからないのですが、橋は消えたけれど国道2号線交差点にその名を残したというお話です。

その浄正橋交差点の地下は2号線の整備と同時に、1993年(平成5年)地下化した阪神電鉄の福島駅です。

交差点の南西に福島天満宮(別名上ノ天神)があります。菅原道真が大宰府で失意のうちに亡くなったことを伝え聞いたこの地の人が907年(延喜7年)に、小社を建て祭ったのが起源とされています。ここのご神体は道真の自画像で、心温まる接待のお礼に道真が描いたと伝えられています。福島駅周辺は新しいビルが次々建てられていいますが、あちこちに小路が残りそこには小さな家が立ち並んでいます。この界隈にちょっとお洒落な美食の店が集まるのは、昔の浄正橋通の伝統があるからかもしれません。

福島天満宮前の路地

ちょっと変わったデザインのABC朝日放送の茶色の建物が見えてきました。新しいABC本社ビルの幅広い大きな階段が「お入りください」と口を開けていますので、それに誘われて緩い階段を上がってみると、そこは庭園で休憩もできる広場です。

ここは2008年(平成5年)にオープンした「ほたるまち」という時代の先端を行く場所です。高層マンション、多目的ホール、放送局、大学のキャンパス、レストランやカフェやスポーツジムなど色々の施設が混在する新しい実験的な街といえます。

南側に下ると、そこに「福沢諭吉生誕の地」の記念碑があります。諭吉は1835年豊前中津藩の下級藩士の子としてこの地に誕生、2歳の時に父が亡くなり豊前に帰国します。長崎で蘭学や砲術を学び、20歳の時に「適塾」で学ぶために大坂にやってきました。福沢諭吉は大阪に縁の深い明治の偉人の一人です。

ほたるまちの全景

堂島川にかかるのが玉江橋です。この橋から「真南に四天王寺の塔が見える」ということが「大坂七不思議」の一つでした。中之島からは南東に位置する四天王寺の五重の塔が「ナンデ真南に見えるんヤロ」というのです。実は玉江橋は南北にではなく、北西から南東に架かっていたそうで、橋を通して五重塔が見えるのは当たり前の事でした。ところが当時のナニワの人は「堂島川は東西に流れ、その川に架かる橋は南北方向だ」という思い込みがあり、それが「不思議」を作り出したということなのです。

以前玉江橋に来たときは、橋から国立国際美術館のユニークな黒い建物が見えたのですが、今回は全く見えなくなっていました。新しいビルがどんどん増えているからです。そんなビルを背に道路沿いに小さなビルが建っていました。その名も「玉江橋ビル」新しい高層ビルに囲まれたビルに思わず「ガンバレ」と エールを送っていました。ネットを調べると1977年に建設とありました。周りが新しすぎるのですね。

玉江橋を渡って中之島に入ると、道路の中央部では梅田と関空を結ぶなにわ筋線の中之島駅の工事が進められていました。

中之島駅の工事現場

次に土佐堀川に架かるのが常安橋です。橋の名前はこの辺りの開発した淀屋常安(淀屋橋にその名を遺す大阪の豪商淀屋の一族)に由来します。常安橋を渡り土佐堀通を横切ります。なにわ筋はこの土佐堀1丁目の交差点から街路樹の続く道路となります。御堂筋をモデルにしたと言われる道筋は、車も少なくゆったりとした雰囲気を醸しだしています。

土佐堀通から南を望む

楽しい街歩き 次号に続く・・・

(文と写真:天野郡寿   神戸大学名誉教授)